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陰口を叩かれるほどだった。
戦前から続く軍需産業大手は、縮小した市場に合わせて統合と再編が行われ、さらにアメリカの要求した財閥解体のあおりも受けて、まだ混乱の渦中にあった。中島や三菱といった大財閥系の企業も、九州飛行機や沢城重工のような後ろ盾の弱い企業も生き残るすべを見つける必要があった。
沢城重工は航空機部門を九州飛行機に売り渡して事業の整理を図ると共に、アメリカのフォード・モーターズの傘下に組み込まれることで、当座を凌ぐことができた。また、九州飛行機や中島(1946年以降は富士重工)、三菱も、満州や朝鮮半島の開発による需要を頼りに命脈を保っていた。
この時期、各社は繰り返される修理や改修、廃棄品を使った技術解析などを通して、少しずつアメリカの技術を盗み取ろうとしていた。その成果が表れるには、1960年代まで待つ必要があった。
1949年は中華動乱が勃発し、日本国内でにわかに軍備の整理が始まって、業界の再編が落ち着き始めた時期に当たる。その年、裕也は創業直後から肝いりで育ててきた噴進弾開発部の試作したKR1号ロケットの初打ち上げを見るために、悪路を通って宮崎県の南、福島町まで足を運んだ。
「沢城重工開発試験場」と銘が掘られたゲートを通り、鉄条網で囲われた12,000uの敷地へと入っていく。海岸沿いの土地は、周囲の危険が少ないことや、土地代が安いなどいくつかの点で好ましかった。
さらに、技術的にはロケットの打ち上げは南に行けば行くほど有利であることは、ツィオルコフスキーの言うところである。また、地球の自転速度を利用するために東へと打ち上げる必要があり、その先が海であれば安全面でも有利だ。
そういった理由から、裕也は沢城重工の利益の一部を絶えず噴進弾開発部に回し、さらに小規模ながら射場まで確保してしまっていた。もともと、起業した理由の1つに独自のロケット開発を念頭においていた裕也にしてみれば当然のことだったが、他企業からすれば胡散臭い新技術でしかなく、様々な方面で沢城重工の悪名がささやかれるきっかけとなっていた。
肌寒い季節になり、海からの風は秋めいていた。射場の周辺に植えられたり、自生していたりする木々の中には、葉の色を鮮やかに変えているものも見えた。
車が到着したのは、海岸から200mほど離れた場所に設けられた展望台だった。海岸方向に開けた視界を持つ高さ10mの鉄筋造りの展望台からは、峻険な岸壁に打ち寄せる波が垣間見えた。
「あとどのくらいで打ち上げかな?」
「予定では1時間ほどかと」
「そうか。スコットの奴もなんとか間に合いそうだな」。
KR1号は1946年当時、裕也が線を引いていた図面を基に、戦中に生産していた1式噴進弾や3式空対空噴進弾での経験を生かして試作された単段の固体ロケット
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