第1部 戦後の混乱と沢城重工
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に飛行甲板上部に立ち尽くしていた。
予定では艦内の個室に案内されるはずだったが、まだ誰も来ていない。ごった返す人々の入船はまだ終わっておらず、おそらくはその整理で手透きの船員が居ないのだろう。高嶋大尉はひとまず、待つことにする。
風が吹きすさぶ甲板は、岸壁から見上げるよりも高い位置にあるように思えた。
常に誰かから見られているような気がしてならないのは、鞄の中身のせいだろう。昨夜のうちに搬入した幾つかの物品と共に、高嶋大尉がドイツから持ち帰って物品だ。それらは、復讐兵器1号および2号、Me262「シュヴァルベ」、Me163「コメート」といったドイツ第3帝国がその末期に開発を進めていた秘密兵器に関する情報でありパーツの数々だった。
第2次世界大戦中、地理的に大きく離れた日本とドイツ、イタリアの枢軸主要3ヶ国は、軍事的な協力を行うことが非常に困難だった。独ソ戦が開始された1941年以降、シベリア鉄道を介した交流も不可能となり、陸路および空路は完全に閉ざされてしまった。
そこで日本とドイツの間をインド洋、喜望峰沖、アフリカ大陸西岸を越えて行き来する、潜水艦による連絡が実行に移されることになる。日本側からは都合4回行われた「遣独潜水艦作戦」は、完全な成功が1回と部分的な成功が2回の成果を得ることができた。
高嶋大尉は第4次遣独艦として派遣された伊二九号潜水艦に便乗して、帰国の途につき、7月14日にシンガポールの地を踏んだ。その際、より確実に日本へと成果を届けるために、積み荷の一部をシンガポール港へと陸揚げし、航空機で本土へと持ち帰ることとなった。7月26日に伊29号が消息を絶ったことを考えれば、その判断は正しかったといえる。
誤算だったのは、シンガポールに残された荷物を輸送する手はずを高嶋大尉が整えているうちに停戦を迎えたことだ。
内地の詳細な情報は入ってこなかったが、どうやら無条件降伏などの過酷な条件が課されず、国としての形を保っているらしいことが分かり、まずはホッとしたが、手元の荷物をどうするかで迷うこととなった。
高嶋大尉は知る由もなかったが、同日付で停戦したドイツ国内では、アメリカやイギリスがその優れた技術資料を本国に人材ごと持ち帰るための作戦を始めようとしていた。8月段階ではまだドイツと交戦を続けていたソ連も、占領地では盛んに収奪を行い、虎視眈々と技術を狙っていた。
独ソの停戦がなった1945年末には、高嶋大尉が復讐兵器2号(V−2)の実験に立ち会ったベーネミュンデ陸軍兵器実験場にソ連軍が進出し、多くの技術資料と共に技術者をソ連本土へと送還している。
そういう類の荷物を確実に内地へと持ち帰るために、あらゆる手立てを尽くした。一緒にシンガポールに降りた岩谷英一海軍技術中佐と共に、まずは複製可能な図面や技術論文をできる限り複写して、
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