泥を踏み抜き光を求む
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あるのだろう。高名な者達がお綺麗な思考でそう願った、理想的な王の姿であろう。心血を注いで民の為に働く者達にとって、尊敬の眼差しを与えるに値するモノであろう。
だがそうでは無い下々のモノにしてみればどうだ。
王が質素な衣服で、倹約した生活をしていれば、部下達はそれより上の生活など出来はしない。自分達もそうであれ、と言われて従えるのは、心の底から信を置いて従えるモノ達ではないのか。民の目から見れば、どちらが上かの基準は見た目を於いて他には無い事は明白であるのに。
部下の方が威張っている、力を持っている……なんと頼りない王か! そう思われる事も、確かにあるのだ。王は絶対者として君臨してこそ、そういった考え方は根強い。弱き人々が支配されたがる本質も持ち合わせているが故に。
別に気にしないで好きにしていいよ、などと言われても、積み上げられてきた習慣や既成概念は毅然として目の前に立ちふさがっている、ということ。
彼の曹孟徳――華琳でさえ、自分の身分に合った生活基準を確立し、それに見合ったギリギリのラインまで無駄を省く事に留め、威厳を示し、力を示し、絶対者たる覇王の姿を見せつける事に抜かりはない。
贅沢は敵、されども、人から見える自分を意識しなければならない。身分とはそういったモノである。権力に基づいた立場とは、そういうモノである。
もう一つ、こういった……ただの金の無駄遣いとも取れる行いには意味がある。昔の桂花は清潔な思考を持っていたが故に、その行いの“狡さ”に気付けなかった。
金は世の中を回るモノであり、回すモノでもある。
誰かが金を使えば他の誰かの手に渡るのは当然の理。金が入れば使いたくなる。強欲に溜め込むような者達はある程度生活基盤がしっかりしていて、民に影響を与える立場の人。又は腹に真黒い願望を秘めているかだ。
麗羽が湯水のように金をばらまくのは、そういった者達“以外”。
神輿担ぎの男も、神輿を作る職人も、煌びやかな衣服を作る服屋も、材料を提供する者達も……あげ始めればきりがないが、溜め込まない所に溜め込んだ金を回しているのだ。
上の者達が金を多く使えば生活が豊かになるモノ達は、確かにいる。それを上手く扱っているのが夕であり、袁家である。
行き過ぎているか……と問われれば答え難い。だが、それでもこの街が問題なく回っていて、さらには……
「また袁紹様が神輿で回っていらっしゃるぞ」
「クク、良く飽きが来ないモノだ」
「まあ、あのお方が楽しそうで何よりだ。こうして街に顔見せに来てくれる王ってのも、あんまりいねぇだろうし」
民との絆も、ある意味で繋いでいる。
目立つ外見に目立つ行動は記憶に残る。民にとっては雲の上の存在のような人物が笑顔で、威風堂々……とは言い難いが、豪華絢爛に街を行けば、それだけ
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