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銀河英雄伝説<軍務省中心>短編集
Lebensgrundlage 〜帰るべき場所〜
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撫でた。
「旦那様のお使いにならない防音室がございます。そこの使用許可を頂き、不肖、わたくしめが手ほどきを致しましょう」
「……!?」
疑似眼球でなければ、目を最大限に見開いたであろう。パウル少年は日頃からあらゆる家事をこなすラーベナルトの、仕事以外の顔を覗き見たような気がして、思わず息を呑んだ。頼もしい執事の庇護を受け、自分だけのために用意された楽器を奏でる。しかも多忙な職務の間を縫って自分とその時間を共有してくれる人間がいる。それがどんなに素晴らしいことかと考えただけで、少年はこの上なく幸せな気分になった。
しかし次の瞬間、少年は再び口元を歪めた。
「でも……」
この執事が、最大の理解者が、父の不興を買うことになるであろう。それは想像するまでもなかった。少年の喜びに紅潮した頬は、見る見る青白くなっていった。
「パウル様」
俯いた少年の頭上から、絹のヴェールを思わせる執事の声が下りてくる。
「ご安心ください。旦那様……いえ、お父上もご存じでいらっしゃいますよ」
そう言って目の前に屈んだ執事の両手が、少年の頬を包む。こうしてパウル少年は、この木製弦楽器の虜になった。
盲目でも弾くことのできるこの楽器は、闇に閉ざされて為すすべのない時間の光となり、パウルはいつしかその時を望むようにさえなった。鋭敏な感覚を持つ少年は、やがて執事の腕を凌駕するほどに上達し、ひとり彼だけの空間で女神の歌声を堪能するようになる。だが、成長するパウルにとって、その歌声はあまりにも神々しく甘美に過ぎた。甘い囁きは彼を酔わせ、一方で言いようのない疲労感をももたらすのであった。自然、より低音の楽器へと興味を移し、14歳の秋、パウル少年は初めて、祖父の形見であるこのチェロを愛器と決めたのだった。

以来、チェロとこの部屋は彼の内面を構成する重要な要素となっている。
オーベルシュタインは思い立ったようにG線とC線を調弦し直して、書棚から譜面を取り出した。
これだ。譜面を黙読して肯くと、静かに深呼吸をしてから徐に弓を弦にあてた。低音から始まり、岩にぶつかるような和音。重低音が不規則な鼓動を思わせる旋律が続き、突然のアルページオ。それを過ぎると、歌うような、けれど迷いの多い旋律。彼が選んだのは、遥か昔に愛されたコーダイの無伴奏チェロ・ソナタであった。スコルダトゥーラ(変則調弦)で奏でられる超絶技巧は、彼の中の諦念、絶望、悲嘆、覚悟といったものをいっそう燃え上がらせ、そして炭とし、昇華させていくように感じられる。

今なら理解できた。
あの時父が、パウルに与えられた至福の時間について諸手を挙げて賛成したはずはなく、やはり最愛の執事は父から相応の仕打ちを被ったに違いないということを。それでも彼に、これを与えてくれた執事の思いを。そしてこれがなければ、自分は疾うに生きな
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