暁 〜小説投稿サイト〜
銀河英雄伝説<軍務省中心>短編集
Lebensgrundlage 〜帰るべき場所〜
[1/5]

[8]前話 前書き [1] 最後 [2]次話
オーベルシュタインはペンを置くと小さく伸びをしてから、極力音を立てずに立ち上がった。
車の音さえ絶えた深夜。廊下への扉を開くと、主が寝室へ戻れるようにと配慮された薄明かりが、ほんのり灯るのみだった。
心が波立って眠れそうもなかった。オーベルシュタインは使用人たちを起こさぬよう、足音を抑えて階段を下りた。いつの時代からあるのか彼自身も知らない、古めかしい地下の防音室に辿り着くと、ホッと息を吐く。大がかりなオーディオセットとソファ、部屋の隅にはグランドピアノ、壁の半分を埋めるような本棚には譜面と音楽ディスクが整然と並んでいる。懐古趣味極まる場所であったが、オーベルシュタインにとって唯一の心休まる場所であった。幼少期にあっては涙と嗚咽を隠す必要がなく、青年期にあっては弦楽器の演奏に熱中し、成人してからは、遥かなる音楽に耳を傾ける場として、常にこの部屋は彼の味方だった。この部屋だけが彼の全てを受け入れ続けてきたし、誰よりも『パウル・フォン・オーベルシュタイン』という人物を知っているのだ。
オーベルシュタインはオーディオセットに手を伸ばしかけて、無機質な目を泳がせた。
脳裏に焼き付いた映像が、彼を責め立てる。瞬時に消えてゆく命、荒涼とした焼跡のみが広がる惑星。驚愕する上官の横顔が、僚友たちの嫌悪の顔が、彼をこそ焼いてしまえと業火の中へ突き落とそうとする。その強烈な責苦は一夜で消し去ることのできるものではなく、けれども彼はその十字架を背負い、自ら上官の盾となることを選んだ。
伸びた手の迷いはすぐに消え、オーベルシュタインは黒いチェロケースを掴んだ。大型の弦楽器であるそれは、彼の最も親しい友人であった。泣いても喚いても、狂気とも言える彼の思考を吐露しても、その友人はただ耳を傾けてくれた。手入れは怠っていないが、もうしばらく音を出していない。だが今宵はとても、他人の奏でる音を聴くだけでは、まどろむことさえ叶いそうになかった。自身の手で精根尽き果てるまで弦を震わせ、そのすすり泣きと悲鳴と、そして哀しみの歌を歌わせなければ、とても眠れそうにないと思った。
彼のレッスンのために用意された椅子とスタンド。その椅子を引き寄せると、卓上の抽斗から小箱を取り出して、その上へ乗せた。そこまでしてから小さく息を吸い込み、チェロケースの蓋を開けて長い弓を取り出す。ゆっくりとネジを回して毛の張りを整えると、いったん脇にある小テーブルへ置いた。先ほど取り出した小箱の蓋を開け、中から松脂を取り出す。もう一度弓を左手で掴むと、その毛に数回松脂を塗り込んだ。ひとつひとつの行為を丁寧に、楽器を傷つけぬよう注意を払いながら進めると、それだけで胸の中の波立ちが凪いで来るように感じられる。
松脂を塗り終えると、いよいよチェロを取り出してスタンドに寄せる。ネジは緩んでいないだろうか?グラつきを確認し
[8]前話 前書き [1] 最後 [2]次話


※小説と話の評価する場合はログインしてください。
[5]違反報告を行う
[6]しおりをはさむしおりを挿む
しおりを解除しおりを解除

[7]小説案内ページ

[0]目次に戻る

TOPに戻る


暁 〜小説投稿サイト〜
利用規約/プライバシーポリシー
利用マニュアル/ヘルプ/ガイドライン
お問い合わせ

2024 肥前のポチ