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2017年 08月 30日 (水) 01時 53分
▼タイトル
美化
▼本文
 「24時間テレビが「病気を言い訳にせず」とツイートし、羽生選手を巻き込み炎上」という見出しをちらっと見ました。今回の24時間テレビは障がい者などハンデを背負った人々に焦点を当て過ぎた内容が批判されているとかなんとか。私は残念ながら見ていませんので、そちらにはあまり触れることが出来ません。

 ところで、私は障がい者系の感動話が殊更嫌いです。それには理由があります。その手の話の多くが、「奇跡が起きた」という感動のラストで何かを克服する構成になっているからです。この奇跡という言葉、私はかなり嫌いなのです。
 ハンデを負った方が不断の努力で何かを克服したのなら、その結果は努力の成果でなければおかしい。その間には様々な思いがあったし、もしかしたら諦めてしまいかけたこともあるかもしれない。そういった感情は人間として当たり前であって、その当たり前を乗り越えた先に、より良くなった今が待っている訳です。
 しかし、奇跡という言葉は本質的に、人間が狙って起こすことが出来ない領域を指し示しています。つまるところは言葉の問題なのですが、努力と奇跡とは相容れない言葉なのです。努力は人が自分の内にある可能性を掴み取った話であって、奇跡は棚から牡丹餅が落ちてきてラッキー、というだけの話です。
 どうでしょう。この二つ、同列に語っていい言葉ですか。
 奇跡。耳障りのいい言葉だとは思います。世の中には奇跡としかいいようのない事だって起きる。でも、それは運であって、人が努力した末に待っているのは努力の成果です。そこに外野が勝手なレッテルを貼ったことで勝手に話を美化しようとする風潮は、本質から目を逸らしていると思います。

 ここで話を戻しまして、「病気を言い訳にせず」の言葉をもう一度振り返ります。これはツイッターの言葉でしかなく、きっと書いた本人は大して深く考えなかったのでしょう。
 羽生選手は昔、喘息持ちだったそうです。私が見たその記事にも書いてありましたが、喘息は重度のものなら当然命に関るほどの症状を起こします。なので多くの人々から「病気を言い訳にする事は甘え」のような心ない発言にとれると批判を浴びてしまった、というのが事の顛末のようでした。

 病気を言い訳にしているように言うな、というリツイートが目に留まりました。私は、それもそれで少しばかり押しつけがましいのではないかと思いました。障がい者だって病気持ちの人だって人間です。不完全ですぐに気の逸れる、完璧には程遠い人間なのです。ツイートしたその人は清廉潔白なのかもしれませんが、全国のハンデ持ちの方の中にはどこかでハンデがあるから庇ってくれるという考えを持つ人もいるでしょう。
 念のために注釈しておきますと、私は障がい者やハンデを背負う人を軽視したつもりはありません。出来ないことをやらせるのは間違っているし、マジョリティの為のルールを維持するためにマイノリティに不便を強要するのも不快に思います。
 しかし、だからといってハンデを背負った人がみな聡明で努力家な人であるかのような言い方をすれば、それはそういった人たちの社会的な在り方を勝手に美化する事なのではないかという疑問が頭をもたげます。そのレッテルが張り付くと言う事は、そこに差異が生まれ、良いハンデ持ちと悪いハンデ持ちという区別が生まれ、そこにまた新たな問題が生まれるのではないかと私は思ったのです。

 まぁ、人間としては聡明で努力家であることは良い事だと思います。そうあれるなら今の社会では理想的かもしれません。しかし、ハンデを持った人たちを美化し続けると、いつしかハンデを持っているから美しくあらねばならないという逆転した無意識的な要求が生まれるかもしれない。いや、24時間テレビのようなメディアを見ていると、既にそういった空気が生まれつつある気がする。それが私には不安です。

 私にはハンデを持った人物について、二人ほど印象深い人がいます。

 一人は、私の同級生でした。脳にハンデを背負った子です。不思議と小学生の頃からずっと同じクラスであることが多く、どこかおぼつかない足取りでうろうろしては同級生に助けられたりしているのを遠くで見て、ああ、そういう手助けが必要な子なのだと子供心に思いました。
 いつも笑ってて、私はあの子は底抜けに前向きか、明るい子なのだなぁという印象を持っていました。ただ、進学するにつれ、その子の過去を知らない人が周囲に増え、そんな人が心ない言葉を口にすることもありました。そんな言葉に、私はひどく納得いかない思いになったものです。

 しかし、そんな同級生と進学の過程で別れたのち、ある人に意外なことを言われました。「あの子は貴方みたいに、フラフラ歩いていても余計な口出しをしない人と一緒にいた方が気が楽だったと思う」……そんな話でした。その子は、周囲の人に面倒を見られるのが嫌いだったそうなのです。嫌い、という負の感情を持っている印象がなかっただけに、驚きました。
 その子は自分の行動について外からあれこれ妨害され、あるべき道に押し戻されるという自分の環境を快く思っていなかった。考えてみれば、それは人間としては抱いて当然の当たり前のことです。私は勝手にあの笑顔の同級生を内心で美化していたことを恥じました。無意識にレッテルを貼っていたのです。
 ハンデを理由に世話を焼くことは、どこかに周囲のエゴを内包しているのです。それが合理的か非合理的かという問題ではなく、気遣いが相手を束縛している部分があることを見落としてはいけないのだと思いました。

 さて、もう一人はそれほど深い関わりのない人です。確か、足にハンデがありながらスポーツの道に行ったという経歴の人で、偶然その知り合いの人から話を聞いたのです。
 話は単純でした。その子は手助けしてくれる人は好きだけど、手助けしてくれない人は嫌いだった。それだけの、人としては実に自然な感情です。ただ、手助けしてくれない人というくびきに、少なからず「かわいそうな自分を心配して特別扱いしてくれない」が含まれていたというだけの話なのです。つまり、少しばかり我儘だったそうです。
 いくらハンデを持っている人だからといって、人並みに出来ることだって当然あります。ハンデがあることに対して周囲と同程度を常に求め続けるというのは間違った話ですが、だからなんでも特別扱いすべしというのも同時に間違った話です。その判断基準の違いもまた、ハンデを持った人によって千差万別なのです。

 「病気を言い訳にせず」――確かにこの言葉は、場面を考えれば不適切な言葉でした。羽生選手の努力を強調するためとはいえ、他の人を蔑ろにしていると受け取られるのも頷けます。この件のこの記事に関しては、糾弾されて然るべきです。
 しかし、世の中に絶対なんてないんです。病気を言い訳にしたいほど辛い人がこの世に一人もいないなんて私は信じませんし、むしろ人間なんていつの時代も言い訳を探している存在だと思っています。恥ずかしいことでも醜いことでもなく、そういう気持ちを抱くことこそ人間だってことなんです。ならば、レッテルは人間であることを妨げるものになってしまいます。

 私は上記の炎上騒動の中に、そういった人間性を排除して綺麗な部分だけを見たがる人々の本音が見えた気がして、それが余計にハンデを持った人たちの世界を狭くしてしまうのではないかと一抹の不安を覚えたのでした。
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