のつぶやき |
2016年 09月 27日 (火) 16時 22分 ▼タイトル 『荒木飛呂彦の漫画術』 ▼本文 どうもこんにちは。 前々から読みたいとは想っていたのですが、 つい読みそびれてしまっていた本を遂に入手しました。 まだ途中ですが、流石荒木先生! と随時叫びたくなるような素晴らしい本です。 そこでワタシが気に掛かった部分、現在連載中の小説とも?がる部分が あったのでここに記載します。 一部「シャナ批判」になってしまうのですが、 ソレが苦手な方は「戻る」ボタンをよろしくお願い致します。 『ヒーローは孤独に闘う』 〜そもそも、誰かと一緒でないと戦えないなんて、 それだけでもう「ヒーロー」とは言えません。 戦う時にみんなを引き連れていくような人間を見ると、 「他人に頼らないで自分でやれよ」と思ってしまいます。 仲間がいたとしても、戦う時は自分だけが頼り。 そうでなければ、ヒーローの資格などないでしょう〜 「第三章 キャラクターの作り方より」 初め読んで少々意外に想ったのですが、 言われてみれば「ジョジョ」に「仲間」はいますが、 戦闘中に成り行きで共闘する事はあっても 〜助けてくれ、〜頼りにしてる、〜がいてくれて良かった 等のような描写は殆ど出てきません。 これは物質的な「一人」ではなく、 あくまで「精神的に」孤独(孤高)という意味なのでしょう。 ですから5部で言うとブチャラティは、 ボスを裏切った後それまでの仲間(部下)に 「ついて来い」とは言いませんし、 徐倫も無実で女の子なのに、過酷な刑務所の生活の中で 兄貴(エルメェス)やエンポリオに泣きついたりはしません。 7部のルーシーですら、戦いに巻き込まれて絶望的な状況でも スティール氏に心の中でも助けを求めたりはしないのです。 (寧ろ護ろうとしています・・・・(ノД`)) やはりそう言った「気高さ」が我々読者の心を打つのであり、 「共感」や「憧憬」に?がっていくのでしょう。 上記の事に灼眼のシャナ「原作」を絡めると、 どうしても「否定的」な意見になり ソレについては前に書いたので割愛しますが、 (まぁ組織同士の命運を賭けた一大決戦の真っ最中なのに、 ドレス姿で相手(敵)の気を引こうとしていた人には 正直唖然としましたが・・・・('A`)) 以上の事を踏まえると、ジョジョとのクロスであるワタシの小説は、 多分にその「影響」を受けていたのだなぁとしみじみ感じた次第です。 例えば一部でシャナが「承太郎には頼らない」という描写が出てくるのは、 コレは兎にも角にも彼女が「ジョジョキャラ化」している事の顕れであり、 (だってアブさんの代わりだから) それだけ承太郎やジョセフの存在が大きいコトを意味します。 二部のマージョリーについても同じコトで、 花京院が十分な戦力になるのに傍にいてもらわず一人を選ぶのは、 「自分より他人を大事にする」というジョジョ主要キャラの 典型的な特徴でしょう。 今回また新しい人が出てきましたが、 彼女もまたジョジョのキャラ(誰とはいいませんが)と関わるコトにより 変化していくのだと想います。 「原作」とキャラが変わるコトに、拒絶反応を持つ方もいると想いますが、 「良い変化」ならワタシは一向に構わないと考えます。 ソレはワタシ(作者)という人間ではなく、 荒木先生という偉大な巨匠の考えに基づいているわけですから 「悪く」なり様がないのです。 |