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2013年 04月 26日 (金) 00時 33分
▼タイトル
実感
▼本文
目の前の大海にカヌーで漕ぎ出してしまったような状況を前に、ただいま絶賛難産中の最期の祈りを執筆中に言いも得難いラピュタを感じています(※注・意味不)。
すいません。多少暴走していました。
なんというか、モノを書いていると才能の無さに辟易させられます。ただこれ、文才に悩んでいるんじゃないんです。多分殆どの人間、或いはモノを書く総ての人が悩むような事をわざわざ悩んでいたんです。
自分が体感、もしくは考えた事を文章にするこの難しさ。一見自明な事をわざわざ書くなと言われそうな悩みですが、ちょっと考えてみると案外面白いものです。
現在、頭にある文章等は明確なビジョンと共に生き生きとしているものなんです。「情景が目に浮かぶ」といった表現が在るように。この時点では当然ながらビジョンによって文が支えられている。
しかし、それは頭の中にしか無く、他者と共有するには生き生きとしたテキストを対象化して観念的なものから実体化しなければならない。その過程で理性のフィルターを通す必要があるが、余程の才が無い限り生き生きとした文はその血肉を失ってしまう。それはビジョンが文章を支えるのでは無く、文章が単独で自身を確立しなければならないからだ。頭の中にあるビジョンは観念的な物でフィルターを通るには余りに大きすぎる。結果、フィルターを通しただけの文章は味気ないモノになる。もう一度血肉を与えようなら、理性のフィルターを通した文を再度客体化しなければならない。
しかし、二度も客体化された文章は果たして「私」が書いたと言えるのか?言い換えるなら、対象化の結果、それは私が書こうと思っていた文であるのか?新たに産まれるビジョンも違う筈だ。オリジナルに似せて書かれた文、悩み苦しみ書いた末がこれでは泣きたくなる。しかも時間を掛ければ掛けるほど、当初のものとは違っていく。一概に、文章とはそんなものなのだろう。
翻っては、自分が完璧を目指して求めてきたものが、実は違うものでしたという落ち。多分、理性を絶対化したその果てだろう。今まで助けてくれた理性を否定する事は出来ない。しかし、少し殴り書きの様な、直情的な文章を書いて見たくなる。
まぁ、実のところ理性なんて限界の代名詞の様なものですからね。自分が対象化出来ないものは観念的なままだし、人物の心情なんて幾ら細かに書いても対象化したのは氷山の一角ですし。
だから、少し本能に従って書いてみます。
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