『冥王来訪』への感想
投稿者:[非会員]の感想
[2023年 06月 10日 14時 33分]
▼一言
僕は『東西ドイツは1990年に統一しない、そのまま分断の方がいい。』と言いたはずでしたが、この話しでは【白色雅各賓派】というTwitterのユーザーでのコメントを読みましたから。
ある人は東西ドイツの統一の例として台湾と中国の統一すべきだと論述します。
【白色雅各賓派】は東ドイツへ行った者たちは知っている、東ドイツと西ドイツにおける国民の認同でもインフラのレベルでも教育の水平でもの視点と考え、東ドイツと西ドイツの分断の方がいい。東西統一の結局、若い者たちはドイツ東部からドイツ西部への引っ越し、ドイツ東部に残った年寄り者たちは恨みを生まれ、選挙でLinkeやAfdに投票する、西ドイツは東ドイツについて消化できない、台湾と中国の統一の結局は台湾が第二の海南島になります
投稿者:
雄渾
[2023年 06月 10日 (日) 15時 21分 27秒]
>中台統一
そもそも台湾は17世紀の鄭成功の反乱以前、歴代支那王朝に従属していましたか?
16世紀末の豊臣秀吉の唐入り(朝鮮征伐)の際、秀吉は台湾にも使者を送るのですがまとまった支配者がいない地域だったので返事は梨の礫でした。
台湾は清朝時代に支那の支配に入りますが、それも一部地域だけで台湾全島を制圧していません。支那本土からの流民や原住民の高砂族などの反乱で、「五年一大乱、三年一小乱」と言われるくらい不安定で、熱帯性の伝染病の猖獗する地域でしたから、清朝の支配システムだと統治しきれなかったのでしょう。
これは香港やマカオにも言えますが、台湾は植民地化のおかげで住民生活が向上し、近代化しました。
50年間に及ぶ日本統治の結果、住民のアイデンティティー(identity)は支那人とは別なものになりました。
大東亜戦争が起きていない、または台湾や朝鮮を割譲しない形で終戦したならば、台湾は現在の沖縄県のようなポジションで日本に残ったでしょう。
もともと独立国で、個別の王朝のあった朝鮮は、おそらく住民投票や李朝の王室の関係で再独立という形で1960年代に独立させたでしょう。
日本の海外領土経営で、一番資金を持ち出したのは朝鮮半島でした。
台湾や南洋群島はむしろ黒字経営だったのです。
>海南島
海南島は貧しい漁村です。支那に近いため、歴代王朝の支配も影響も台湾より早く受けていた形跡があります。
軍事拠点の一つではありますが、参考になるのでしょうか。
東ドイツと西ドイツは一応、1871年の帝政ドイツのドイツ統一以来、同じ国家でしたし、なによりドイツ人という意識が両者に共通していましたから、住民感情として再統一は悲願でした。
この点は、今一つ及び腰な南北朝鮮の統一とは好対照です。
冷戦期の分断国家、南北イエメンに南北越南、この両方とも武力による赤化統一でした。
イエメンもベトナムも言えることですが、王室が存続していれば違った形になったでしょう。
(これは朝鮮にもいますね。朴正煕は李朝の李垠を王として即位させるべきでした。
李朝と日本の皇室は姻戚関係にありますから、日韓の結びつきは今以上に強固なものになったでしょう)
>東西統一の結果、若い者たちはドイツ東部からドイツ西部への引っ越し
青年層の流出は東ドイツ建国以来の課題でした。
一説に1961年まで300万人が流出したと言われています。
壁の建設前、移住しなかった東ベルリンの若者は西ベルリンに買い物に行って映画を見て帰ってきましたから、ジーンズを履き、ロックンロールダンスを踊って、ビートルズなどの流行歌を口ずさんでいました。
壁ができてからも、個人の住宅や教会で洋楽を聞いたり、ダンスパーティをやるのはシュタージも黙認するほどでした。
(教会とシュタージとの関係は資料を集めてから、作中で改めて書きたいと思います。
これはアイリスディーナの行動にも関係する話になるためです)
日本人から見て良策は、台湾から国民党が本土に引き上げて、支那全土を奪還し、台湾は台湾人が決めればいいと思ってます。
台湾の場合は独自の王も不在で、統一政権もありませんでしたから、どうしても隣国の支那の影響を強く受けるのは仕方ないと思います。
台湾と支那本土の距離が、支那と沖縄ほどの距離でしたら、また違ったでしょうが……
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