「冥王来訪」の感想一覧

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木原マサキの月面偵察の時、アメリカの副大統領と国際金融資本の集団は日本の元樞府について、とある陰謀が考えます。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>月面偵察時……米国と国際金融資本による陰謀
マサキに対して何か仕掛けるとなると、このタイミングしかないですよね。
参考ご意見として、承っておきます。


 
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木原マサキはベルリンへ行き、東西親善の工場でミラ・ブリジッスとアイリスディーンに会います。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>東西親善の工場
この案はいいですね。
海外から技術提供受けないと、1970年以降の技術革新に乗り遅れた東ドイツの工業力は貧弱でしたし。
史実でもVWから一応技術提供を受けることにはなりましたが、この話はあまり有名じゃありませんからね。

 MPi-Kと称された東ドイツ製のAK47に関してはソ連製より仕上げがいいのは評判になっていましたから、世界初のPMCとされる南アフリカのエグゼティヴ•アウトカムズ社で採用されていましたね。


 
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すまん、突然に鎌倉幕府という単語で木原マサキを指しますし、僕はロンドベルなど軍人について同情で、たから、ロンドベルは鎌倉の武士ような、卑怯な政治家を倒す、そして、もう一つ政府を立ち、本来の政府を架空のことが望みたいです。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>ガンダムシリーズのロンド・ベル部隊
ロンド・ベルの場合は、地球連邦政府高官のジョン・バウアーの政治的な働きかけがなければできなかったでしょう。
マサキが、マブラヴ世界の日本政府に何かするという話になると武家という貴族層と政府高官に根回しをして、話を付けないと無理でしょうね。

 実は大まかなプロットは出来上がっているのですが、グレートゼオライマーと月の威力偵察の話を書いて以降になりますかね……

 読者の皆様に聞きたいのですが、西ドイツ編の後の展開としては、サミットの話を少しやった後、すぐ月面偵察に行くか、それともミラ・ブリッジスに会う話にするか、アイリスとの逢瀬を書くか。あるいは米国の戦術機関連の陰謀に巻き込まれるか。
悩んでます。今後の展開に関して、どうぞご自由にご意見ください。 
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雄渾さんに書きして木原マサキと彼の権力闘争は鎌倉幕府ようなの風味があります。 
作者からの返信
作者からの返信
 
 私自身は、特に意識して大時代物に出るような武士のつもりで書いたつもりはありませんが、その様な内容になってしまっているのならば、それは青少年期、洋画と時代劇と特撮を観抜いたためでしょうね。
 1990年代当時、はやっていた、幽遊白書やスラムダンクやドラゴンボールは一通り見ましたがそれ以上に熱中したのが洋画と時代劇でした。
 バットマンやロボコップに限らず、歴史ものやサスペンスまで見ましたね。
「薔薇の名前」や「セブンイヤーズインチベット」などのジャン=ジャック・アノー監督作品は好きで、繰り返し見ました。

 OVA版の「冥王計画ゼオライマー」は脚本を書いた會川昇の説明セリフを意識して、登場人物にやや時代がかった言い回しをしているのもありましょうが、時代劇や歴史ものが好きだったせいか、砕けた現代風の言い回しより持って回ったセリフの方が書きやすいのもありますね。


 
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『台湾本土の独立派って米国の支援を受けているだけでわいわい騒ぐ連中はやはり少数派ですかね……』

だって、台湾民族主義者たちには台湾の言葉と慣習法を保持し、育児と武勇を鼓舞できさせてインドの民族義勇団にような社会集団がいません。 
作者からの返信
作者からの返信
 
民族義勇団のような団体があっても迷惑でしょう。

>台湾の言葉と慣習法
支那本土との距離の近さと、統一王朝がなかったせいもあるのでしょうね。
17世紀前半にオランダが来るまで全く支那王朝に注目されず、せいぜい倭寇か支那商人の小規模な根拠地があったぐらいでしょう。

もう少し支那大陸から離れていて日本列島に近かったら沖縄の様になっていたかもしれませんね。
(沖縄にはすでに7世紀には日本の影響下にありました。唐の高僧、鑑真が最初に漂着したのは沖縄とされています。)

台湾人は日本統治時代になるまで原住民の高砂族と福建省からの移民は格別していましたし、今も根強い差別があると聞いています。

金門や馬祖などは日本領になったことはございませんから、台湾本島との住民との間に意識差もありましょう。
(支那事変中は金門、馬祖は日本軍の軍政下におかれましたが)

朝鮮の様に王朝があって貴族や知識層がいれば違ったのでしょうが、未開の部族と福建からの流民ですからね。
文化的背景、言語的背景が違えば、どうしても同じ価値観を共有できなかったでしょうし。

日本が戦争に負けてなくて、台湾をずっと領有していたら、文化的な背景が弱い彼らが日本人になったのか。
フランスの海外県の住民みたいになったのかなと思ってます。

個人的には日韓問題より日台問題の方が深くこじれていて難しいなと思っております。
日本人の多くは、一部の台湾人の目先の親日的言動に惑わされているような気がしてなりません。
つらい国民党統治時代の鬱屈した感情がそのような形で表れているのかなとも考えています。
無論、中共の脅威を恐れて、日本を台湾有事に引き込むために行っている面もありましょう。

 日本は歴史的に見ても朝鮮有事も台湾有事も出兵せざるを得ない立ち位置です。
中共に不穏な動きがあれば、昨年の秋の様にまた台湾海峡に海保の大型巡視艇を派遣するでしょう。
(海保の巡視艇の中には護衛艦と同じレーダーを搭載したものもありますし、大型艦は対空機関砲としてボフォースの40㎜火砲とM61バルカンを2基づつ装備しています) 
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僕から説明でくれします

フィラ: ファッラーヒーンのこと、本来はアラビア語で「耕す人」を意味します。オスヴァルト・シュペングラーは《西洋の没落》に[ファッラーヒーン]という単語で、衰退した文明における人々は冒険の精神が消えたのことを指します。(劉仲敬先生はシュペングラーのファッラーヒーンという概念で中華文明における人々を指していたが、劉仲敬先生は自分が中華文明における人々を高めると言います。)
リベラル派:ギルドや座など特権を持つ独立の法人について目障りと思いながら、ギルドや座によって取り決めるルールを守したくない者たちを指します。リベラル派は国家と中央の権力を強化したい、ギルドや座の独立的地位と特権に廃止させ、リベラル派の仕事を変えたいことや勝手に起業したいことは仕事を変えるや勝手に起業するを実現します。 
作者からの返信
作者からの返信
 
戦前の日本が参照しようとしたドイツのマイスター制度や教育制度を少し調べると、現代社会にあっているのかなと疑問に思います。

日独の自動車産業の流れなどを見ていると、旧来のシステムに固守し続けた西ドイツと、時勢に合わせて制度変更をしていった日本の差が50年、70年近くたって出てきた結果ではないかと思っています。

現実の世界でも1970年代は価値観の変化が起きた重大な局面でありますし、大学進学率が先進国で伸びてくるのもこの時期です。

原作を見るに、テオドールなどは10歳で進路を決める西ドイツの制度では落ちこぼれで切り捨てられます。
ですが、軍に少年兵として編入されて3年足らずで衛士をやっていることを考えるとけっして頭の悪い人間とは言えないように見えます。

ドイツの近年の衰退を考えると教育制度の問題も大きいのではないかなと考えております。 
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雄渾さん、ドイツ語はChatGPTによって翻訳に頼みことが試しますが? 
作者からの返信
作者からの返信
 
>ChatGPT
使ったことはありませんね。
google翻訳か、DeepL翻訳ですね。
あと邦訳文献を使うのは資料としての確実性を固めるためでもありますね。 
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雄渾さんはテオドールで糸口として西ドイツにおけるギルドの生態に割り込みつもりですが? 
作者からの返信
作者からの返信
 
>西ドイツのマイスター制度
これも実態を調べて、大まかな話を書こうかなと思っています。
日本国内ではマイスター制度は素晴らしいともてはやされているのですが、じゃあ何故、隣国フランスやイタリアにないんでしょうか。
ドイツ文化圏の制度とはいえ、現代の工業化社会の実態に合っているのでしょうか。
BMWやVWのクリーンディーゼルの偽装事件を見るに、怪しく思えてきています。

小生はドイツ語が出来ませんので、日本語文献を探して簡単な話を書こうかなと思案しています。

あと、単にテオドールが、軍とも戦術機とも縁のない平和な暮らしを書いてみたいという気持ちの方が大きいですが。
(西ドイツは男子は成人したら基本的に徴兵されるので、その辺もどうするか。思案中です)
 
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もしご匪賊は日本人技師が残した瓦房店軸受有限公司がなければ、火器管制システムを構築することはできなかったでしょう。満州国の元金が50年以降から食べられています、さらに後継者もいない… スターリンはソビエトにおける軍事産業の3分の2がアメリカ企業とラパッロ条約によって送られたドイツの技術によって設立されたことを認めた。
このストーリーはレーニンから始まったわけではありません。西方と東方の関係は常にこのようでした。オスマン帝国の海軍と砲兵はいつものように亡命したキリスト教徒で構成されていた。ペルシア人やムガル人が手に入れた武器とは実にオスマン帝国のゴミ箱から拾った残り物だった…東アジアの火薬帝国にはそんな残り物すらなく、ポルトガルの大砲を300年間使い続けたのだ。洪秀全は呉三桂の時代における大砲を使い続けた。林則徐はモンゴルの時代における大砲の製造を続けました。瓦房店のベアリングは第二次世界大戦後から今まで使用されておりの代わりをするであることは明らかです。
こんな模範の起源は多くの人が想像しているよりもはるかに古い歴史の黎明期にまで遡ることができます。殷商や三星堆の青銅器は一見すると西アジアの様式を持っています。西周の青銅器の技術は明らかに退化しており、西アジアの様式も消え去った。最も合理的な説明は、初期の技術者は実際、満州国の日本人技師や南太平洋のイギリス脱走兵と同様の役割を果たしていたということです。彼らがいない後、先住民の学徒たちは世代がかわるごとに劣っていきました。
鮮卑とモンゴルの宮廷が何百年もかけて習得したペルシャの錦と磁器の技術は、明の時代に200年も経たないうちに失われてしまいました。
明朝初期になると安南銃器とフランジ銃器はどんどん小型化され、最終的には木製に置き換えられました。もし清朝があと300年間平和に暮らしていたら、おそらくポルトガルから大砲は失われていただろう。私がこの目で見た18世紀のシャム(タイ王国)要塞大砲は19世紀の清の要塞大砲よりも数が多く優れていました。
鮮卑の宮廷によってトルコ人から導入された製鉄技術は、宋の時代にはすでに知られていませんでした。鎧は最初は鉄片をはめ込んだ革に変質し、その後大量のボール紙が追加されました。そうだ、段ボールで作りました。明代は宋代のコークス炉を廃止し、ナイフ一本で割れることができるの兜を作りました。この種のヘルメットは将軍にのみ割り当てられヘルメットがある、兵士には割り当てられヘルメットがいません。満州人の鎧はジュンガルの目には劣っており、アラブ人やトルコ人の目には約800年も時代遅れですが、明の時代にはまだそのような鎧がありません。
海の栄養素のほとんどは海岸と表層にあり、海底の生物は数百年前に水面から沈んだ残留物にのみ依存しています...技術の伝達の連鎖における東アジアの位置は、ほぼこのように、何千年もの間、内アジアと、コンゴ川流域やアメリカインディアンよりも少しだけ高い東南アジアの残り物を食べ続けています。
こんな人々がイスラム教徒を軽蔑する資格があるとどのように感じているのかわかりませんが、おそらく清流(口だけと口先する人々のこと)や革命家による李鴻章に対する軽蔑から学んだのでしょう。優勝や準優勝の決勝戦で敗者にブーイングをするチアリーダーを見ていると、自分も勝者であるかのような気分になるかもしれない。いわゆる敗者が準優勝する意味など考えていなかったし、優勝者以外に勝つのは簡単だった。ティムール家がインドを征服したのはマー・ワラー・アンナフルで負けたからではないでしょうか…。
最後になりましたが、遠古邪悪(以前に劉仲敬先生から影響によって個別グループのこと)はご匪賊を征服する運命にあります。まず、瓦房店は漢奸(中国の裏切り者のこと)やインプットチェーンの伝統を表しています。次、人はテロメアが枯渇すると必ず死にます。東アジアの支配者の終焉の瞬間は、内陸アジアや他の輸出屋(支配者のこと)を見てきた最後の世代の組織者(例:チュルク戦士)や技術者(例: ソグディアナ商人)の消滅でした。 手抜きをした魔法師の学徒は先住民としてファッラーヒーン(順民のこと)であると偽り、科挙などの方法を用いてファッラーヒーンの後継者を選ぶようになった…。

以上は劉仲敬先生の《東アジアにおける拾い屋の食物連鎖》であります。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>清王朝の鎧
これはたぶん騎馬兵用の綿襖甲ですね。
元朝時代の物を靖国神社で、清朝時代のものを国立博物館で見たことがあります。
遠方からの射撃には一定の効果がありますが、刀剣で切り裂かれたらたぶん助からないつくりをしていました。
中身が厚い綿や厚紙なので軽量で温かいんでしょう。
李氏朝鮮の兵士やシベリアのウデゲ人やブリヤート人も同じものを使っていましたね。

日本でも奈良時代の一時期徴兵制が敷かれた(防人制度)際に、この綿襖甲を使っていたのですが、200年ほどで廃れてしまいました。
金属製の鎧に比べて、軽いだけですから日本の戦闘様式に合わなかったのだと思います。

日本の当世具足は着たことがあるのですが、兜や鎧は現在のボディーアーマーやヘルメットとほぼ同じ重量でした。
動きづらくはないですが、慣れるまで変な感じがすると思いました。

>明代は宋代のコークス炉を廃止し、ナイフ一本で割れることができるの兜
明朝時代の甲冑は重く動きづらかったという資料を昔見たのですが、そういう理由があったのですね。
秀吉の朝鮮征伐の際、明軍が日本刀を大いに恐れた記述があったのもその話を聞いて納得しました。


>西周の青銅器の技術は明らかに退化しており
周王朝成立から100年ほどで殷時代にはよく見られた饕餮(とうてつ)紋が失われていますよね。
日本の佐藤 信弥先生の本などを読んでいると宗教的な理由と書かれていましたが、単に技術的な湿田が理由なのですか。
 すると青磁の伝統が失われた李氏朝鮮と支那王朝は何ら変わりがないように思えてきました。
明時代には明の太祖(洪武帝)の政策によって、茶の文化もだいぶ失われましたよね。
外国人である日本人からすると、支那の優れた文化が失われることが多すぎるのではと思えてしまいます。 
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すまん、僕から転送した《日本の集団主義と呉越(浙江の南部と江蘇の南部のこと)搾取工場》內容が知財泥棒と合っていなく瓦房店化と合っています。

知財泥棒のことに合っているのは劉仲敬先生のもう一つの文章、タイトルは《東アジアにおける拾い屋の食物連鎖》です。

少々待ちください。 
作者からの返信
作者からの返信
 
 毎回、劉仲敬先生のTwitterを翻訳転載なさるは大変でしょう。
twitterの原文を見に行きますので、投稿日時だけ教えていただければ、今回以降は大丈夫です。
 
 翻訳文を作るのも苦労でしょうし、またコメント欄への転載も大変でしょうから。

こう書きましたが、作品に関する意見や質問に関しては今まで通りで構いません。
 
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知財泥棒については劉仲敬先生の一つ論点があります。

Twitter@Liuzhongjingから2017年7月2日に《日本のグループ主義と呉越搾取工場》の一文とコメントします。

『日本が東アジアに属したのは5世紀から9世紀までであり、それ以前は内アジアの影響を受けた太平洋諸島系に属し、建武以降は独立した文明体系としか考えられなかったが、応仁以降は独立した文明体系に属していた。西洋の影響を受けた独立した文明体系であり、明治以降に西洋文明として発明されたものであり、その体系の中の国民国家。

平安時代末期、唐人は法律と国家によって紙を譲り渡すことができなくなりました。内アジアの綿布は唐から元に輸入され続けたが、東アジア人は500年間それを学ばなかった。宋の時代までに、日本人はすでに呉越人が習得できない綿布を作っていました。明清時代の呉越の綿紡績は模倣技術であり、労働力の導入が加速し、製紙技術は瓦房店で学ばれた。

呉越は中古の劣化した技術と安い労働力に依存しており、それは高貴な盗賊から始まったわけではありません。同産業は、中世日本では封建的業界団体を形成し、徳川時代には産業政策圧力団体を形成し、テクノロジーに頼って藩の輸出市場を保護する手段を向上させた点は、当時の満州国と大差ない。 1930 年代と 1960 年代の通産省。

モンゴル皇帝の武器技術や経済的収入は鎌倉武士の手の及ばないものでしたが、日本の裕福な王子や商人が日常的に使用していた木綿布はモンゴル皇帝にとって捨てがたい宝物でした。松江搾取工場の隆盛後、東アジア市場には粗悪な下着が氾濫したが、関西の綿布や白紙は決して値下げ競争に勝てなかった。このストーリーは他の場所でも何度も登場しているようです。

泉州、備前、尾張の綿織物産業が革命の道を歩まなかったのは、フィラ右派や真のリベラルが主張するような、ギルドを持たない細分化された労働力の低賃金競争や低賃金のせいではない。封建主義集団の政治活動による強い圧力のため。松江の家綿織物は、散砂中の小規模農民の主婦を労働力として依存しており、政治的に最も恵まれない環境にあり、怠惰は怠惰、どんな代償も小遣いという原則に従って、蚕糸労働力が生産されている。ディアオシの消費者。前者は治療についてますます気にしなくなり、後者は品質についてますます気にしなくなります。悪化する環境に早く適応した者が、ダウングレードを拒否する競合他社を排除できる。

日本の領主と藩の職人の組み合わせは、封建的な世代間契約を構成していました。職人コンビは藩の財政危機や課税の意思決定の立案者となることが多い。藩主の家老たちは藩の特色ある産業に経済的に依存しており、産業政策の策定や原材料の品質管理などに慣れている。このような監督は、村の自治と武士の領地責任が保障されて初めて可能であった。

呉越に点在する綿布と茶の生産者は、鞭打ち法を実施するよりも品質管理を実施する方がコストが高く、品質を確保して釣魚を買えなくするよりも、手抜きをして価格を下げて衢溪市場を勝ち取る方が有益である。彼らはこの方法を使って、宋の時代以降、ますます悪化する供給に政府を慣れさせ、イギリスに対処するためにも同じ方法を使い、イギリスに混ぜ物を避けることができるセイロン茶生産地域の栽培を強制しました。

幕府と大阪商工会との間の財政的分断は、徳川憲法の重要な部分を構成しており、これにより両党はブランド産業の技術保護を積極的に支援し、綿織物産業が無資格の田舎の臨時労働者を雇用することを厳しく禁止した。封建的産業集団は今日、いわゆる職人魂を事実上保証しており、自分の子供や養子が藩主の家よりもさらに長く安定した家を受け継ぐと信じて、優れた製品の名誉のために働かせている。

江戸幕府、備前藩、尾張藩が最後に出稼ぎ労働者との悪質な競争から職人組合を保護する法令を出したのは1842年。法的保護の対象となるのは、川端康成の『京都』に描かれた職人たちである。彼らの先祖は神社や寺院とともに現れ、山や森と同じように不滅であるかのように見えます。現在、京都市場におけるストライプ生地の品質は英国毛織物を上回っています。木曽川沿いの土地の3分の1には綿花が植えられています。八幡製鉄所とそれに相当する軍需産業を除いて、明治維新後のいわゆる経済離陸産業はいずれもすでに安定した政治的伝統と貿易システムを有しており、その半分は松平時代よりも長い歴史に遡ることができる。』 
作者からの返信
作者からの返信
 
 支那は日本や西欧のような封建制を経験していないですからね……

>職人
西ドイツの件で述べると思うのですが現在のマイスター制度にも問題があるんですよね。
あとで機会があるときに書きましょうか。 
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もしマブラブはバブル時代にアニメ化すれば、200話を超えことができますが? 
作者からの返信
作者からの返信
 
>バブル時代だったら200話越え
50話を超える特撮・アニメはバブル前でも珍しかったですね。
ヒットして延長した「ダグラム」「ゴッドマーズ」もせいぜい1年半でした。
逆に打ち切りになり、OVAで補足するという方法もこのころ編み出されました。
「レイズナー」はその典型ですね。
「レイズナー」はOVAを見ないと結末が分かりません。

マブラヴは一応2005年ごろに吉田社長のもとにサンライズ、あるいはバンダイからTVアニメの企画が持ち込まれました。
いろいろな経緯があって吉田社長はサンライズのアニメ化案を断っていますが、これが実現したら1年の放送枠とOVA化をしてもらえたでしょう。
案としてはEXにワンシーズン、ULにワンシーズン、ALに2シーズンを掛けて、最後のハイヴ攻略戦をOVAでまとめるものでした。
 当時はアカネマニアックスを作ったばかりですからスタッフも声優もそのまま使えた訳です。
プラモデルやフィギュアもバンダイ系列から出たでしょう。
(壽屋のプラモデルが悪いとは言いませんが、中国製で値段が高く入手しずらい)

惜しいことをしました。 
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最後、【Austria Lee】から『今ではロシア領ドイツ(旧ドイツ民主共和国のこと)にするのは古代化だといます、多数の復元された中世の建物であります。』とコメントします

【白色雅各賓派】は西ドイツとオランダにもするですと返答します。

【Austria Lee】は『ネーデルランドとラインラント=フリースラントは工業と工会の基によりレベルが良く維持ながら、旅遊と宣伝の金を稼ぎます。今ではロシア領ドイツ(旧ドイツ民主共和国のこと)におけザクセン、ブランデンブルク、ポメラニアの三つ地には本来の産業は倒産と社会も崩壊、救済金を頼みますだけ、僕にして見えば、ザクセン、ブランデンブルク、ポメラニアの三つ地の旅遊業にするの結局とネーデルランドとラインラント=フリースラントとても違います。』とコメントします。 
作者からの返信
作者からの返信
 
 同じ敗戦国として日独はよく比較対象にされますが、全然違います。
日本は四方を海に囲まれ、志那からの直接支配を受けずに独自の文明圏として発達した国です。
たしかに文化的影響は大いに受けましたが、国民の民族意識の形成は悠久の歴史を誇る皇室抜きには語れません。
 2000年前に成立し、遅くとも7世紀には今の日本列島全域に影響力を行使した大和朝廷の存在によって、日本列島に住む者は同じ価値観を共有できるようになりました。

 他方ドイツは、基本的に地続きで外国の影響を防ぐ手段がありません。
古代から常にローマや東方から来る騎馬民族の影響を受け、また中世には今のバルト三国に入植をし、スラブ人とかなり交雑などをしましたから、日本の様に同じ価値観を同じ民族で共有するのが困難になっているのは事実です。
 ドイツ民族を、国家を限定しないで言ったら、その範囲は今のEU圏のフランスとイタリア、イベリア半島を取り除いた、ほぼすべてに当てはまる地域に住む人々が該当するでしょう。
 そういう意味ではEUをドイツ第四帝国と称する人々がいるのは仕方がないことだと考えています。

 
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続く、とある人は【白色雅各賓派】に『ドイツ民主共和国の時期に経った者たちは自然な死亡しだら、情況は変化できるのが?』と質問します

【白色雅各賓派】は『旧ドイツ民主共和国におけるライプツィヒやドレスデンなど市は確かにドイツ西部のスタンダードにゆっくり合わせるけど、ケムニッツとバウツェンなどのようなベッドタウンは中国における三線や四線城市、あるいはアメリカのラストベルトにような放棄されたの如くのです。たとえ次の世代まで、ケムニッツとバウツェンなどの住民は自分は捨てられたの人々と思います。ネオナチはケムニッツとバウツェンなどの地に活躍です』とコメントしました。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>DDR時代を知る老人がいなくなったら変化するか
ドイツは地方ごとに諸侯がいる地域を1871年にまとめてドイツ帝国を作ったのが今のドイツの基礎になった国です。
一朝一夕でその意識を変えるのは難しいと思いますよ。
 日本も飛び地で本土の影響が及びにくかった沖縄との間に微妙な問題を抱えていますし……
7世紀から日本になった地域ですら、これですから、地続きとはいえ150年ほど前まで別な国だったドイツ国民の間に複雑な感情があるのは仕方ないと思っています。
 本当は旧東ドイツ国民のケアをドイツ政府がすべきなのでしょうが、ドイツ政府の施策を見ると大都市部だけに集中し、不十分に見えるのは実情です。
(これは規模の大きい国家では地方への十分な支援が行き届かないのはよくある話です。
ドイツばかりではなく、日本などほかのG7諸国でも同じでしょう)
 
(非会員)
 
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僕は『東西ドイツは1990年に統一しない、そのまま分断の方がいい。』と言いたはずでしたが、この話しでは【白色雅各賓派】というTwitterのユーザーでのコメントを読みましたから。

ある人は東西ドイツの統一の例として台湾と中国の統一すべきだと論述します。

【白色雅各賓派】は東ドイツへ行った者たちは知っている、東ドイツと西ドイツにおける国民の認同でもインフラのレベルでも教育の水平でもの視点と考え、東ドイツと西ドイツの分断の方がいい。東西統一の結局、若い者たちはドイツ東部からドイツ西部への引っ越し、ドイツ東部に残った年寄り者たちは恨みを生まれ、選挙でLinkeやAfdに投票する、西ドイツは東ドイツについて消化できない、台湾と中国の統一の結局は台湾が第二の海南島になります 
作者からの返信
作者からの返信
 
>中台統一
そもそも台湾は17世紀の鄭成功の反乱以前、歴代支那王朝に従属していましたか?
16世紀末の豊臣秀吉の唐入り(朝鮮征伐)の際、秀吉は台湾にも使者を送るのですがまとまった支配者がいない地域だったので返事は梨の礫でした。

 台湾は清朝時代に支那の支配に入りますが、それも一部地域だけで台湾全島を制圧していません。支那本土からの流民や原住民の高砂族などの反乱で、「五年一大乱、三年一小乱」と言われるくらい不安定で、熱帯性の伝染病の猖獗する地域でしたから、清朝の支配システムだと統治しきれなかったのでしょう。

 これは香港やマカオにも言えますが、台湾は植民地化のおかげで住民生活が向上し、近代化しました。
50年間に及ぶ日本統治の結果、住民のアイデンティティー(identity)は支那人とは別なものになりました。
大東亜戦争が起きていない、または台湾や朝鮮を割譲しない形で終戦したならば、台湾は現在の沖縄県のようなポジションで日本に残ったでしょう。

もともと独立国で、個別の王朝のあった朝鮮は、おそらく住民投票や李朝の王室の関係で再独立という形で1960年代に独立させたでしょう。
 日本の海外領土経営で、一番資金を持ち出したのは朝鮮半島でした。
台湾や南洋群島はむしろ黒字経営だったのです。

>海南島
海南島は貧しい漁村です。支那に近いため、歴代王朝の支配も影響も台湾より早く受けていた形跡があります。
軍事拠点の一つではありますが、参考になるのでしょうか。

東ドイツと西ドイツは一応、1871年の帝政ドイツのドイツ統一以来、同じ国家でしたし、なによりドイツ人という意識が両者に共通していましたから、住民感情として再統一は悲願でした。
この点は、今一つ及び腰な南北朝鮮の統一とは好対照です。
 冷戦期の分断国家、南北イエメンに南北越南、この両方とも武力による赤化統一でした。
イエメンもベトナムも言えることですが、王室が存続していれば違った形になったでしょう。
(これは朝鮮にもいますね。朴正煕は李朝の李垠を王として即位させるべきでした。
李朝と日本の皇室は姻戚関係にありますから、日韓の結びつきは今以上に強固なものになったでしょう)

>東西統一の結果、若い者たちはドイツ東部からドイツ西部への引っ越し
青年層の流出は東ドイツ建国以来の課題でした。
一説に1961年まで300万人が流出したと言われています。
壁の建設前、移住しなかった東ベルリンの若者は西ベルリンに買い物に行って映画を見て帰ってきましたから、ジーンズを履き、ロックンロールダンスを踊って、ビートルズなどの流行歌を口ずさんでいました。
壁ができてからも、個人の住宅や教会で洋楽を聞いたり、ダンスパーティをやるのはシュタージも黙認するほどでした。
(教会とシュタージとの関係は資料を集めてから、作中で改めて書きたいと思います。
これはアイリスディーナの行動にも関係する話になるためです)

 日本人から見て良策は、台湾から国民党が本土に引き上げて、支那全土を奪還し、台湾は台湾人が決めればいいと思ってます。
 台湾の場合は独自の王も不在で、統一政権もありませんでしたから、どうしても隣国の支那の影響を強く受けるのは仕方ないと思います。
 台湾と支那本土の距離が、支那と沖縄ほどの距離でしたら、また違ったでしょうが……
 
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雄渾さん、次回またはアメリカにおける産業が国際金融資本によって中国でoriginal equipment manufacturerの搾取工場を築き上げることができるについて描きますが?

現実には中国のoriginal equipment manufacturerの安い値段と市場開放でアメリカにおける製造業はアメリカから海外へに移しますからとラストベルトの工員たちは羽目に陥ります。

 
作者からの返信
作者からの返信
 
>国際金融資本による赤化支那の工業支援
支那をはじめ、韓国や台湾に関しては、先に読者様からご意見をいただいたF5フリーダムファイターの件で触れようと思います。

>OEM生産
この時代の中共はソ連のライセンス品の違法生産でしょうね。
戦術機は資料集を読むとそのままライセンス品を作ってる形じゃなくて、少しデザインを変えた特許対策品ですし。

 いずれ知財泥棒の話もやるしかないのかな……
正直、東アジアの話は、生々しいので悩みますね。

 
(非会員)
 
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前に言った張作霖や吳佩孚はソビエトとの破棄についてことが、僕は劉仲敬先生のTwitterにおけるコメントをもう一度読みました

1、張作霖とソビエトの破棄するのはソビエトのスパイによって郭松齢の乱を起こりました。だが、ソビエトのスパイは奉軍の内に忍び込むと郭松齢を買収できるのは、張作霖とソビエトは白系ロシア人の管理して中東鉄路を分割し、奉系はソビエトの協力によってハルビン共和国を合併できます。
2、吳佩孚はソビエトとの破棄して表面な理由は外モンゴル、深層な理由は京漢鉄道ストライクです。なぜ京漢鉄道ストライクが起こるのか、吳佩孚はソビエトから第一次世界大戦における鉄道と物流の協力を貰いたいですから、ソビエトのスパイは直系の内に潜入できのです。

これにしてみれば、張作霖と吳佩孚も孫文にような無罪ではありません。 
作者からの返信
作者からの返信
 
19世紀末から政治活動をする者は共産主義者と無関係というわけにはいかなかったでしょう。
支那ばかりではありません。日本や朝鮮の活動家なども大なり小なり関係してますね。

ソ連の有害工作に関しては当事者のロシア自身が勝ち誇ったように資料を残していますから調べられますが、調べれば調べるほどうんざりとするものです。 
(非会員)
 
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日本によって建設して満州がしっかり立ちたいのシナリオは二があります

1、エドワード・ヘンリー・ハリマンの条件を受けます
2、ハル・ノートを受けます

元々、満洲の存在とは石原莞爾によって計画した『日米決戦』のため。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>ハリマン協定の破棄
小村寿太郎はハリマン協定には反対しましたが、モルガン財閥の満州進出には積極的だった面がありますし、米国側も大規模な資本投下を考えていた節があります。
 どちらかというと満州事変囲碁のリットン調査団の報告書を受け入れなかったことの方が問題を悪化させたと思います。
 リットン報告書は、内容をよく読めばたしかに日本の行動を非難していますがその原因は志那の混乱にあり、満州国が出来た今、現状変更は難しいという内容で、かなり日本側の立場に立った報告書でした。

>ハル・ノートの受諾
ハル・ノートには二冊あります。
今日知られている対日強硬案はワシントンDCで書かれたものではなく、モスクワで書かれたものを英訳したもので、NKVD北米副局長であったヴィターリー・グリゴリエヴィッチ・パヴロフがハリー・デクスター・ホワイトに渡したものです。
ホワイトはモーゲンソー財務長官の私案を基にこの秘密計画に沿って書き上げたのが、今日知られるハル・ノートです。

もう一通はハル長官の直筆のもので、対日政策はずっと融和的でした。

仮に日本政府がハル・ノートを受諾しても、米国はドイツ参戦の口実として対日戦争を望んでいましたから、フィリピン沖の哨戒艇などを使った工作や別な形で戦争を招いたでしょう。

>満洲の存在
満州国の存在は満洲人自身の望みでした。これは紫禁城の黄昏やリットン報告書を見ていただければわかります。
また日本政府の立場としては対露防衛の観点から満洲と朝鮮半島に軍事力の配備は急務でした。
これは石原莞爾などではなく明治以来の政策です。

古代より日本にとって朝鮮半島に親日的な政権の樹立は重要な政策でした。
朝鮮半島に初めて王朝のできた三韓時代の前より、日本人は積極的に半島の南部に移住し、その影響力を行使していたことは、12世紀に編纂された朝鮮の正史である「三國史記」に記されています。
また、埋蔵物や陵墓より発掘された遺骨のDNA鑑定の結果からもそのことはほぼ間違いのない事実です。

朝鮮半島に足場を築いても地続きの満州から兵力を入れられたらひとたまりもありません。
6世紀後半にあった唐朝の高麗征伐や蒙古の侵入、17世紀の丙子の乱(『丙子胡亂』あるいは丙子之役)など、例を挙げればきりがないでしょう。

朝鮮半島の維持のためには満州は必要な土地でした。
以前も書きましたが1924年の馮玉祥のクーデターで紫禁城を追われた溥儀を保護した時点で、満州国建国に走るべきでした。
(もっとも溥儀の意識が変わったのは1928年の東陵事件であったと自伝の『わが半生』に書いてあったと記憶しています)


 
(非会員)
 
コメント
なぜキリスト恭順派と難民解放戦線は西ドイツから資金援助させました? 
作者からの返信
作者からの返信
 
なぜ西ドイツがそんなテログループに資金提供をしたのかよくわかりませんが、戦術機開発と並行して米国の世界戦略を崩すために仕掛けたと言う事は想像がつきます。

マブラヴ原作中ではマスター(テオドール)は欧州連合内の諜報機関との接触を示唆しています。

EUもそうですが、ソ連も米国に資金援助を受けながら国際謀略活動をしていて、CIAはよく黙ってみているのだなとあきれています。
 
(非会員)
 
コメント
『それまで受けていた軍事支援の額は米国やドイツを抜いてソ連が一番でしたから。』

例: 中華民国側にはアレクサンドル・チェレパノフとワシーリー・チュイコを主としてソビエト軍官たち、長沙作戦や崑崙関の戦いなど参戦と指揮しました。 
作者からの返信
作者からの返信
 
>中華民国側にはアレクサンドル・チェレパノフとワシーリー・チュイコフを主としてソビエト軍官たち

当時の日本政府の政策は『対ソ静謐』というもので、ソ連側が満洲里を超えて進行してこない限りは基本的にこちらから仕掛けないことでした。
張鼓峰事件やノモンハン事件はソ連側の挑発で発生した事件であり、満蒙国境は清朝時代の国境線を維持していた日本側のすきを狙って越境し、秘密裏に国境線を削っていたソ連側に非があります。

日本でなければ、支那事変中の度重なる軍事挑発は対ソ開戦理由になるものでした。

あと関東軍特別軍事演習、俗にいう「関特演」はソ連への軍事侵攻計画などではなく、通常の軍事演習の一環でした。

過ぎたこととはいえ、12月8日に真珠湾ではなく、ウラジオストック港の攻撃で日ソ戦が始まったのであれば、全世界を覆ったソ連社会主義の悲劇というのは違ったのかもしれません。
また、朝鮮半島や台湾の辿った運命も違ったものになったでしょう。 

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